三嶋豆と飛騨駄菓子

飛騨の国は山に囲まれ砂糖の流入が極めて少なく、三嶋豆は高級菓子でした。



明治時代に使用していた看板

「木曽はすべて山の中である・・・」とは島崎藤村の有名な一部ですが、ご存知の通り飛騨はもっと山奥に存します。昔から「下々の国」と呼ばれ、面積は広いのに作柄はわずか3万8千石という作物の恵みの少ないところでした。
 しかし、金森氏が6代・106年間に渡り統治のあと、幕府直轄の天領となったのには諸説がございますが、「豊富な地下資源と広大な山林資源があったことによる」とするのが妥当のように思います。

現在に至るまで、高山祭・飛騨高山の文化が存在し得たのにはこういった資源を有効に利用した幕府の力と、そこにたむろした豪商の力があったことはいうまでもございません。
高山の豪商達は金儲けをし、江戸後期には越中・加賀の外様大名に高利貸しをして富を増やし、祭屋台などの文化遺産につぎ込んでいきました。

一方、作物の恵みの少ない庶民には「大豆・ひえ・あわ」等といった穀物を食べ、非常に貧しい状態が続きました。
「ほうばみそ」に代表されるように、味噌そのものを焼いて食べる風習や「にたくもじ」といった古くなった漬け物を煮直して違う味付けで食べる風習などは他地方には余り見られぬ風習ですが、食物の保存・味付けの工夫ということに一番神経を使ったようでございます。

「赤かぶ」に代表される漬け物が高山で発展しておりますのもまさに「保存」という観点に立っての食文化であり、飛騨の昔の方々が「塩からいもの」が好きなのも保存を利かす為に必要なことでございました。
また、前述のように漬け物が酸っぱくなってからはそれを煮直して「煮たくもじ」(くもじ=つけものの方言)にして、最後の最後まで余りを残さず食べたり、「箱膳」といって自分の食器や箸を使ったらお茶で洗って、箱にしまっておき、ご飯粒までも残さない食文化がございました。

「飛騨ぶり街道」と呼ばれる越中街道は富山湾で上がるぶりを塩漬けにして運んできたのでこの名がつけられました。飛騨が山間部であるために摂取量の少ない動物性タンパクをこの「ぶり」で採っていたようですが、1週間かけて荷馬車で持ってくるため、その塩漬けは並大抵の塩ではなかったようです。
また、この「飛騨ぶり」を飛騨の人々がすぐに口にできる訳がなく、正月に1回しか食べられない高価なものでした。それほど、流通には恵まれない土地がこの飛騨だったのです。

高山に茶の湯文化(宗和流)があったにもかかわらず、茶菓子がそれほど発達し得なかったのは、この流通の不便さによるものだと考えられます。
山間部のために白砂糖の流入が極端に少なく、高価なものであったことにより、庶民の口にはなかなか入らなかったものです。したがって、現在まで伝えられている菓子は、白砂糖より余り使われない黒砂糖を使ったものや、水あめ(米飴)を使ったものが多く、こくせん・げんこつに代表される「飛騨駄菓子」はほとんどが主原料に「水あめ」を使っています。



乗鞍を自慢のダットサンで配達する11代久兵衛

弊舗「三嶋豆」は白砂糖を使っているがゆえに、高価で、庶民の口にはなかなか入るものではなく正月の年越しの行事とかお祝い事のように特別の時にやっと食べさせてもらえたものであったそうで、駄菓子とは違い、高級菓子として親しまれてまいりました。

また、高山のお菓子の特徴は、前述の如く作物に恵まれない土地柄のゆえに、大豆(きなこ)・ひえ・あわ・きび・とち等といった穀物や木の実を使ったお菓子が庶民に親しまれてきたという歴史がございます。小豆などは寒冷山間地のために生育が行き届かず、昔は栽培がされていませんでした。


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