馬印の由来

商標馬印には、こんな秘密があります。

        飛騨はもともと斐太と書いたのですが、飛ぶ馬と改めたのにはこんな歴史があります。


弊舗商号の馬印及び弊舗販売の木版絵馬についてのいわれは次の通りです。

弊舗商標馬印の由来は以下の通りです。

「昔、大野郡丹生川村字池の俣に神馬生まれ源頼朝公に献上した。これが佐々木高綱に賜り、宇治川の戦いに乗用先陣の名を残した名馬”池月(いけづき)”であった。

また、慶長年間同村に白馬が舞い降り、国主金森公へ献上したところ国富の瑞兆(ずいちょう=国が栄える兆し)として大いに賞賛され、山桜鹿毛(やまざくらのしかげ)と名付けてすぐに乗馬された。

各名馬が出たことにより国字を斐太とあったのを飛ぶ馬と書いて”飛騨”と改めた国名にちなみ、左馬印をつけて農商務省登録商標権(今は商標権)を得て使用している」(弊舗掛け軸より抜粋)

現在でも丹生川村池の俣には村起こしで”名馬池月の里”がございますし、また、南方の明宝村には”するすみの里”がございまして名馬の出たことを誇りにしております。

また、山桜鹿毛については郷土史によく登場し、丹生川村に白馬が舞い降り、国主金森公(3代重頼(しげより)公)に献上され、大変な寵愛を受けた。この馬が江戸の大火(有名な振り袖火事)の折、参勤交代で江戸金森屋敷におられた城主を背に乗せ、数メートル(7間)あった堀をひと飛びし、火事から城主を救ったという伝説があります。



幣舗商標馬印の基となった山桜鹿毛の木版画


高山市松倉山の松倉観音絵馬市や本町絵馬市もこの馬が由来で、あるとき、この馬が病気にかかり、全く治らない。それは城主が滅ぼした三木一族(当時松倉山に城を築く)のたたりであると噂が立ち、松倉山に観音菩薩を立てて供養したところ、たちどころにこの馬の不治難病が治ったという。

それは牛馬にとってたいへんな御利益のある観音様だという事になり、当時、牛馬が家族同然だった周辺農家の者達がこぞって牛馬をつれて観音様にお参りに来るようになりました。
日程も厄払いということで8月9日(8=ヤ、9=ク)に登山をし、10日のご来光を見て下山するのが習わしとなりました。ただし、山が急峻のため、せっかく連れた牛馬が怪我をしたり、あの山道では連れていくのも重労働でした。
これではせっかくお払いをしてもらうのに良くないと言うので、当時、清見街道の入り口(高山市八軒町)に「絵馬市」が軒を連ね、農家の人は自分の牛馬に顔・色・つや・形のよく似た牛馬絵を選びそれを曳き曳き松倉山に登ったそうです。

最近では商売・健康・家内安全の神様として崇められておりますが、残念ながら類似品があります。本当に御利益のあるものは8月9日に山に上がり、10日にご来光を眺めた上で判を押したものが9万9千日の御利益があるものと言われています。


松倉絵馬の版を押したものはこの様に数々の印が押してあります。



また、本町2丁目にある「馬頭様」は、別名を「馬頭観音」といい、この山桜鹿毛を祭ってあり、ここでも毎年「絵馬市」が開かれております。ここでは商店街らしく景気がいいようにと「千円」を「1千万両」と言う具合に呼び方を改めて呼んでいます。

絵馬の貼り方は、幸せが家の中に入るように絵馬の頭を家の中心(大黒柱の方向)を向くように玄関に貼りますが、もともと「留め馬」の風習があり、大きな馬を家の中央へ、小さな馬をその馬に対峙(向きあわせに)して貼るようにしたそうです。

これは「幸せというものや金銭というものは自分に入って来るばかりではいけない。少しは外に出して、世に使い、大きな幸せが入ってくるように心がけねばいけない。」という昔の人の戒めを表していたそうです。
昔の人の「こころ」が大変、教訓になります。
また、毎年毎年「絵馬」を重ね貼りしていくのが本当の貼り方だそうで、農家の旧家では板くらいの厚みになった絵馬が現存しているそうです。

弊舗にも昔、古物商を営んでいた関係で、この山桜鹿毛の2双の掛け軸が現存しております。

その絵馬を木版にして、「飛騨木版絵馬」として本物の「飛騨松倉絵馬」とは区別して絵馬を販売させていただいております。もし、機会があれば松倉山にお上りになって本物の絵馬をお求め下さい。


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