三嶋豆の名の由来

三嶋豆の名前は実は人の名前なのです。


shouhin

 弊舗「馬印三嶋豆」には次のようないわれがございます。
「三嶋豆」の歴史について、もともと上三之町「三嶋治兵衛」翁により明治8年に発明されたと高山市史に掲載されておりますが、そのため、この名がついております。
弊舗(九代 長瀬久兵衛)はこの治兵衛といとこの間柄で、「錦豆」という名称で同じ豆を販売しておりました。(ただし、言い伝えによると治兵衛が先か久兵衛が先かは明かではありません。)

 治兵衛は糀屋の生まれで商売を始めたとき38歳、久兵衛はこのとき28歳でした。
「ある時、治兵衛氏の母堂が炒り豆が好物であったが、年老いて歯も弱り炒り豆を噛むことができないのと嘆いておられました。 そこで、孝心深い治兵衛氏はどうにかして母に炒り豆を食べさせたいと色々考えた末、試しに大豆を水に浸して煎り上げたところ非常にもろくなり、 これに砂糖をまぶして母にすすめたところ大変喜ばれてその風味を称賛されました。
 そこで従業員、知人にも配ったところ一同の絶賛を博したので商品化され、店頭で販売されるようになった」という言い伝えがあります。
ところが、当時、治兵衛は歓喜寺の出身で、久兵衛は料理の達人であったことからどちらが先にこの調理法を発明したかは定かではありません。 当初、久兵衛はこの豆を東京で商うつもりで、浅草の洗足町あたりに店を出しましたが、失敗し、高山に帰ってきたときには9厘しか持っていなかったという逸話があります。
 その後、夫婦で店を経営し、久兵衛は持ち前の料理の技術を活かし、天秤棒をかつぎ、下呂〜加子母〜付知〜中津川へと魚の行商と宿屋で料理を教えながら商いをし、 帰りには中津川で菓子を仕入れてきて同じルートへ売り歩いていた。残った妻が「錦豆」を販売していたと言い伝えられています。

 明治19年頃、当時この地方に榧の実があることを知った九代久兵衛は、いろいろと試行錯誤の結果、「錦榧」を発明しました。 この製法は今でも変わらず伝えられ、昔ながらの製法でご愛顧いただいています。また、当時、中津川の有名菓子店にその製法を伝え、この地方では「かやあられ」という名前で親しまれています。 その後、同じように製法を工夫して、山椒豆・紫蘇豆などを開発し、その製法が古文書により今日まで当家に伝わっています。 平成に入り、上記2種類の商品を復活。そのほか、黒糖豆、七味豆、大豆ココア、大豆シナモン、お茶豆など新商品を開発し、今日に至っております。 平成20年には、かつて製造されていた飛騨の原種「ウスアオ大豆」の商品化に成功。味噌など多種多様な商品を開発しております。



昭和3年12月10日昭和天皇の御大礼奉祝献上菓子として献上したときの賞状

 昭和4年10月、京都で「五色豆」を商いしているF総本店よりこの「錦豆」の商標について訴えられましたが、弊舗の方が先に登録していたものであることがわかり、 訴えが棄却されました。
 この頃店舗は、本町1丁目本陣平野屋横にあり、昭和17年頃まで営業を行なっていました。
その後、戦争が激しくなり、大豆・砂糖など菓子の原料の入手が困難になり、併せて戦局の悪化に伴い昭和17年1月、国の命令で企業統合が推進され、三嶋家の「三嶋豆」と長瀬家の「錦豆」、その他高山の菓子業界は合併し、「高山甘味食品工業有限会社」となりましたが、戦後になっても原料の入手困難のため一時、販売を中止していました。



写真は、昭和9年頃、高山本線開通時の幣舗

 昭和21年、三嶋氏が復員されましたが家業の継続をされず、乞われて設立早々の高山商工会議所専務理事として高山の復興に大変なご尽力をされました。菓子業を継がれなかったので、十一代長瀬久兵衛は「馬印三嶋豆」の名称で「三嶋豆」を復活させ、自慢の愛車ダットサンで遠くは白川郷、乗鞍を超えて白骨温泉まで広く営業活動を行ないました。


昭和26年ごろ愛車ダットサンで乗鞍まで営業の11代久兵衛


昭和26年ごろ歩広めの前の上一之町幣舗

 ところが、「三嶋」は地名であり(静岡県三島市)、豆は原材料名のため商標登録ができず、昭和28年に申請を放棄したため、今日、たくさんの「三嶋豆」が生ずる結果となった。 (平成4年現在高山市4軒、富山4軒、岐阜1軒、三島市1軒を確認している。類似品にはご注意下さい。)

 平成2年、仏壇の奧から出てきた製法をもとに「山椒豆」を復刻。同時に黒砂糖を使った「黒糖豆」も十一代久兵衛の姉より習い商品化しました。

 平成4年、明治時代に作っていた「紫蘇豆」の復刻版を発表。高山市土産品コンクールにて奨励賞を受賞しました。

 平成5年、相次いで「七味豆」「海苔豆」「しぐれ豆」のを開発し、生産を開始しました。

 平成8年、HPを作成しました。
この頃、下呂の尾張屋さんと提携し、「かやのみせんべい」の発売を開始。幣舗で実を提供し、尾張屋さんでせんべいに焼いてもらい、両店舗で発売を開始しました。

 平成9年、小学館のサライ誌2月号にて全国の豆菓子の老舗が紹介されました。 これによると弊舗の「三嶋豆」は全国で最も歴史が古く、伝統がある豆菓子であることが判明した。京都の五色豆が明治19年の創業であったので、実に11年も早く世の中に登場していたことがわかりました。

 平成10年、上記の小学館より「豆菓子と甘納豆」の老舗についての本が出版され、その中にも紹介されています。 また、3月に行われた飛騨高山映像祭では、中村玉緒氏が来高され、故 勝新太郎氏の大好物が「三嶋豆」であったことを、聴衆の面前で申され、後日ご仏前に奉奠させていただきました。

 平成11年、製造場に創業以来初めてTVカメラを入れ、全国に紹介。「アド街っく天国」という番組で飛騨高山15位にて幣舗が紹介されました。

 平成18年、若い人向けに「大豆ココア」「大豆シナモン」「お茶まめ」を新パッケージで発売開始。好評を得ています。 また、「肉桂豆」「胡椒豆」「緑海苔豆」「露黒」「黒豆茶」「黒大豆三嶋豆」なども同時期に発売開始しました。

 平成19年、名古屋の豆福さんと提携し、一部商品を発売開始。商品ラインアップを拡大しました。

 平成25年、HPをリニューアルしました。



現在も炭を使って乾燥させている。その製法は昔と変わらない。

以上がだいたいのあらましですが、発売以来、「三嶋豆」「錦豆」の受賞回数があわせて百数十に及ぶことを列記しておきます。


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