三嶋豆の歴史

馬印三嶋豆について

当店の「馬印三嶋豆」は、厳選した国産大豆を100%使用し、現在も製法には炭火を用いています。大豆を煎り、砂糖とでんぷんを幾重にもかけ、乾燥させて仕上げています。製品にするまでに延べ5日の工程を経て、ていねいに手間暇をかけてつくっております

「三嶋豆」の名前は創業者の三嶋治兵衛の名字が由来です。治兵衛のいとこの九代長瀬久兵衛は「錦豆」の名称で当初商売を始めました。戦後になって「馬印三嶋豆」に改称いたしました。

昭和18年頃の店舗(上一之町)

昭和18年頃の店舗(上一之町)

母への想いが三嶋豆考案の始まり

ある時、長瀬久兵衛のいとこ 三嶋治兵衛の母“ちか”は炒り豆が好物でしたが、年老いて歯も弱り、炒り豆を噛むことができなくなったと嘆いていました。

そこで、親孝行な治兵衛はどうにかしてちかに炒り豆を食べさせたいと様々に考えを巡らせた末、大豆を水に浸してから煎り上げる製法を考案。

すると、大豆は非常に柔らかくなり、これに砂糖をまぶしてちかに勧めたところ大変喜ばれました。

そこで、知人や従業員にも配ったところみな絶賛し、商品化されたというのが「三嶋豆」と「錦豆」の始まりだと云われております。

昭和18年頃11代久兵衛現店舗(上一之町)にて

昭和18年頃 11代久兵衛現店舗(上一之町)にて

下下の国 飛騨

飛騨は昔から「下下の国」と呼ばれ、面積は広いのに穀物の石高はわずか38,000石(実質の石高は鉱山資源などを入れて90,000石)という作物のめぐみが非常に少ないところでした。

米もあまり育たないこの土地の庶民は、大豆、ひえ、粟などといった穀物を食べ、おかずには、朴の木の葉に味噌だけをのせ焼いて食べる「朴葉味噌」や、漬かりすぎた漬物を煮直して食べる「煮たくもじ」など工夫を凝らしていました。山が多く広がった田んぼが少ない冬の長いこの土地では、保存し工夫しなければ食べ物がなかったのです。

飛騨地域は、元禄時代に江戸幕府が直接治める「天領」となりました。しかし、それまで領主であった金森公は、農業を盛んにし、作物をたくさん作らせるため豆種を試作させたといいます。

ある時、久々望山(現在の久々野町あたり)の麓に農作に熱心な甚吉という者がおり、大豆を木のまま国主へ献上したところ、大いに賞賛され青豆という姓を賜った」という史実や、全国的にも有名な宗和流茶道の祖 金森宗和は飛騨の生まれです。

その金森宗和が京都で飛騨の豆は非常に美味なことを多く宣伝して歩いた」という伝説も残っています。

高山で宗和流という茶の湯文化が発達したにも関わらず、生菓子がそれほど発達しえなかったのはなぜでしょうか。それは、山々に閉ざされた流通の不便さによって砂糖の流入が極端に少なく、高価なものであったからです。

飛騨の駄菓子は黒砂糖や水あめ(麦芽糖)を使ったものが多いなか、「三嶋豆」は白砂糖を使っていたため高級菓子であり、飛騨ぶり同様年末の年越しの行事に食べる特別なものとして用いていただいておりました。

現在では、「まめにガヤガヤ、クリクリと(栗)」(岐阜県では掻き(柿)とると言って柿を食べる地域もあります)と健康と家族安全を願って年越しに三嶋豆と錦榧(ガヤ豆)を食べる習慣が飛騨には残っています。

馬印の由来

馬印の由来

当店で使用する馬印。飛騨地方から多く名馬が出た故事より、繁栄を祈念して使用しております。

名馬とは、平安時代の宇治川の戦い時に源頼朝から佐々木高綱が賜り、先陣争いをした「磨隅(するすみ)」と「池月(いけづき)」という馬や、金森公へ献上され江戸で起こった大火事「振袖火事」の際に国主を救ったという伝説のある名馬「山櫻鹿毛」(高山市本町馬頭様ご祭神がございます)が「斐太」から出たことにより、国字を「斐太」から「飛騨」に改称したという故事にちなんで、明治13年より農商務省商標登録権を得て使用しています。

当店限定 榧乃実の始まり

当店限定 榧乃実の始まり

九代久兵衛は料理の達人で東京浅草で錦豆の販売にも取り組みましたが失敗し、帰郷。

その後、夫婦で高山に店を出しながら、久兵衛は持ち前の料理の技術を活かして天秤棒を担ぎ、下呂~加子母~付知~中津川へと干魚の行商と宿屋で料理を教えながら商いをしたそうです。

そして、帰路では、中津川で菓子を仕入れ売り歩いておりました。

明治19年頃、この地方に榧の実があることを知った十代久兵衛は、いろいろと試行錯誤の結果、「錦榧」を発明。この製法は今でも変わらず伝えられ、昔ながらの製法でご愛顧いただいています。

また、当時、中津川の有名菓子店「すや」「川上屋」にその製法を伝え、中津川では「かやあられ」という名前で今も親しまれています。

販路開拓

販路開拓

11代長瀬久兵衛は、子どもの頃から自動車が好きで、昭和5年に自動車を購入。9代久兵衛が行商して歩いたルートを自動車で配達して巡りました。

写真は、乗鞍スカイラインができる前の乗鞍での写真です。戦時中、乗鞍に作られたジェットエンジン試験場がありました。その道路が戦後、平和利用されて乗鞍登山道路となり、昭和48年、乗鞍スカイラインとなりました。高山駅を拠点として多くの登山バスがお客様を運びました。

その際に、乗鞍に車を進めた時の写真です。

「当時は、どこの道路もガタガタ道で、車のパンクやミッションの板バネが折れることもあり、パンクした時には、長瀬久兵衛と私(大萱三郎)は助け合ったものだ」と同じように干魚や缶詰めを白骨温泉の旅館に販売していた久兵衛の同級生の大萱氏が語ってみえたことがあります。

まだ現在のように道路がアスファルトで固められていなかった頃から、11代長瀬久兵衛は、平湯~信州まで販路を広げていたのでした。

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